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日本铁道简介(日语资料)(来自日本百科事典)

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 楼主| 发表于 2007-1-10 13:28 | 只看该作者
安濃鉄道 Encyclopedia

   


安濃鉄道(あのうてつどう)とは、かつて三重県の津市から芸濃町までの間を運行していた鉄道路線を運営していた会社である。他の鉄道路線とは接続していない孤立路線であった。

安濃川に沿って阿漕と関間、また途中の安東で交差して一身田と片田方面を結ぶ計画だったが、中間部分の新町~林間、安東~片田間しか建設されなかった。1920年代半ばに末端部の椋本~林間、支線の安東~片田間が廃止され、太平洋戦争に入り資材供出のため1944年に不要不急線として残る新町~椋本間が休止となった。戦後も会社は存続し、運行再開を目指し何度か休止延長願を運輸省に提出していたが資金調達が出来ず、1972年に正式に廃止された。


路線データ
路線距離:
本線:14.5km(新町~林)
片田支線:5.1km(安東~片田)
停車場数:16
軌間:762mm
電化区間:なし(全線非電化)
複線区間:なし(全線単線)

沿革
1913年(大正2年)7月30日 安濃鉄道設立。
1914年(大正3年)12月29日 新町~椋本間開業。
1915年(大正4年)1月15日 椋本~林間開業。
1915年(大正4年)11月1日 鹿毛駅、内多駅開業。
1917年(大正6年)4月15日 安東~片田間開業。
1924年(大正13年) 納所駅開業。
1925年(大正14年)11月7日 椋本~林間、安東~片田間休止。
1927年(昭和2年)4月6日 安東~片田間廃止。
1928年(昭和3年)7月1日 蒸気機関車の他に、ガソリン気動車導入。
1936年(昭和11年)4月1日 岡本駅、椋本口駅開業。
1940年(昭和15年)4月25日 萩野駅開業。
1941年(昭和16年)10月31日 椋本~林間廃止。
1944年(昭和19年)1月11日 全線を不要不急線として休止。
1972年(昭和47年)8月31日 全線廃止。

駅一覧
本線
新町駅 - 納所駅 - 安東駅 - 鹿毛駅 - 曽根駅 - 内田駅 - 安濃駅 - 荒木駅 - 岡本駅 - 萩野駅 - 安西駅 - 椋本口駅 - 椋本駅 - 林駅
片田支線
安東駅 - 跡部駅 - 分部駅 - 産品駅 - 志袋駅(貨物) - 志袋駅 - 片田駅
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 楼主| 发表于 2007-1-10 13:34 | 只看该作者
宇品線 Encyclopedia

   


宇品線

広島電鉄宇品線
かつて、広島駅~宇品駅間を結んでいた旧国鉄宇品線。本稿で述べる。


宇品線(うじなせん)は、広島県広島市の広島駅から南下し宇品駅までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線。

目次
1 路線データ
2 概要
3 運行形態
4 使用車両
5 歴史
6 駅一覧
7 接続路線
8 備考
9 廃線跡現況




路線データ
路線距離(営業キロ):広島~宇品間5.9km
軌間:1067mm
駅数:7駅(起終点駅含む。1966年旅客営業廃止時点)
複線区間:なし(全線単線、交換駅:下大河)
電化区間:なし(全線非電化)

概要
当初は日清戦争の人員・物資輸送のための軍事専用線として建設された。開戦の1894年(明治27年)年には山陽鉄道(現山陽本線)が広島駅まで開業したため、この広島駅と宇品港(現広島港)とを連絡するために 陸軍省の委託により山陽鉄道が軍用線を建設した。同年8月4日着工、8月20日完成。

以後、宇品港から日清戦争、日露戦争、太平洋戦争に出征・復員する兵士や物資の輸送を担った。1897年(明治30年)には山陽鉄道が陸軍省から借入れて一般旅客営業を開始、1906年(明治39年)に鉄道国有法(同年施行)に基づき国有化。

戦後は沿線の学校、大学病院、県庁仮庁舎、工場などへの通勤・通学および貨物輸送を行っていた。しかし同様に広島駅~広島港を結ぶ広島電鉄皆実線・宇品線(路面電車)やバス路線の利便性との差が大きくなり客足が減少、全国一の赤字路線に陥り、定期券客を除いて旅客営業は1966年(昭和41年)限りで廃止。その定期旅客扱および貨物扱も1972年(昭和47年)に廃止され、国鉄線としては使命を終える。

その後も宇品四者協定線として広島県経済連など通運業者が、広島駅東側に位置する東広島貨物駅(現在の広島貨物ターミナル駅)~宇品間の専用側線扱いとして使用していたが、1986年に廃線となった。


宇品四社協定線時代の上り貨物列車(宇品~丹那間、1986.7)


猿猴川の橋梁(南段原~大須口間)を渡る上り貨物列車(1986.8)


宇品駅(ホーム中ほどから西望、ホーム上は旧糧秣支廠倉庫)(1986.9)


宇品駅(長さ560mのプラットホーム東端から西望)(1986.9)



運行形態
旅客列車運行本数(平日)

1953年6月:広島~宇品 23本
1964年10月ダイヤ改正:広島~宇品 14往復(うち下り3本は呉線から、上り1本は徳山行き、計4往復が客車列車)・ 広島~下大河 平日のみ2往復
1966~1972年(上大河~宇品廃止後、国鉄宇品線全線廃止まで):広島~上大河 平日4往復、休日2往復(原則として定期旅客のみの扱いとなり、時刻表から消える)。
貨物列車は1日1往復で、広島発5時→宇品着5時25分・宇品発5時44分→広島着6時10分。宇品駅には「広島駅宇品貨物取扱所」を設置。

宇品四者協定線(国鉄宇品線廃止後、1986年の廃線までの貨物専用線)時代:東広島(貨物駅)~宇品 貨物列車早朝1往復

使用車両<写真などから判別>

?年ごろ:キハ10系、キハ20系
1963年8月のある日:朝夕のラッシュ時のみ客車列車 D51 514+2ドアロングシート客車、日中はキハ04単行。
1966年8月のある日:D51 798
1969年11月のある日:C11 330
1966~1972年(定期旅客輸送のみの時代--広島~上大河):上大河では機回しができないため、客車列車は前後に蒸気機関車を連結
1972~1986年(貨物線--宇品四者協定線時代):DE10が牽引する貨物列車。貨車はワム8000、タキ24700(日清製粉)、タム5000(味の素)など。




歴史
1894年(明治27年)8月20日 陸軍省の委託で山陽鉄道が広島~宇品間に軍用線敷設。広島駅 (同年6月10日開業)と宇品港(現広島港)との間を連絡し、日清戦争への出征兵士・物資輸送にあたった。
1897年(明治30年)5月1日 山陽鉄道が陸軍省から広島~宇品間を借入れて一般営業開始。
1906年(明治39年)12月1日 鉄道国有法に基づく山陽鉄道の国有化とともに広島~宇品間も陸軍省から鉄道院に移管。
1909年(明治42年)10月12日 線路名称制定。広島~宇品間を宇品線とする。
1915年(大正4年) 第一次世界大戦で中国青島侵攻のために再び軍事専用線となる。
1919年(大正8年)8月1日 広島~宇品間の旅客営業廃止。山陽本線貨物支線となる。
1930年(昭和5年)12月20日 芸備鉄道が鉄道省から借り受けて広島~宇品間で荷物営業、広島~丹那間で宇品線の旅客営業を再開。貨物営業は省営で継続。
1937年(昭和12年)7月1日 芸備鉄道を鉄道省が買収、宇品線として広島~宇品間で旅客営業開始。
1945年(昭和20年)8月6日 広島に原爆投下。宇品へ負傷者の輸送を行う。
1966年(昭和41年)12月20日 平面交差する国道2号線(当時バイパス)工事に伴い、国道以南の上大河~宇品間3.5kmが廃止、同区間は宇品積卸線として専用側線扱いとなる。上大河付近への通学者の利便を図るために旅客営業が広島~上大河間2.4kmに残されたが、乗車は原則として定期券所持者のみに限定。ただ実際としては、車内で補充券を購入する事によってそれ以外の人も利用できた。
1968年(昭和43年)9月 国鉄赤字83線に宇品線(広島~上大河間2.4km)が指定される。1970年度の営業収支係数が4,049と国鉄全線中最悪に。
1972年(昭和47年)3月7日 国鉄宇品線の廃止を申請。
1972年(昭和47年)4月1日 広島~上大河間2.4kmが廃止となり「国鉄宇品線」としての使命を終える。その後宇品までの全線は東広島貨物駅(現広島貨物ターミナル駅)を基点とする「宇品四者協定線」として専用側線扱いに。以降東広島~宇品間で午前5時台に1往復の貨物列車が運行される。
1986年(昭和61年)10月1日 宇品四者協定線廃止、宇品線は廃線となる。




駅一覧
km 駅名 (読み)(変遷)
0.0 広島駅(ひろしま)
0.4 安芸愛宕駅(あきあたご)(1931.3.20愛宕町~1937.7.1安芸愛宕~1943.10.1休止)
1.2 大須口駅(おおずぐち)(1931.3.20~1966.12.19)
1.2 大須口信号場(1966.12.20~1972.4.1廃止)
1.4 東段原駅(ひがしだんばら)(1930.12.20~1943.10.1休止)
1.8 南段原駅(みなみだんばら)(1931.3.20女子商業前~1937.7.1南段原~1972.4.1廃止)
2.4 比治山駅(ひじやま)(1932.9.25兵器支廠前(へいきししょうまえ)~1937.7.1比治山~1943.10.1休止)
2.7 上大河駅(かみおおこう)(1930.12.20被服支廠前(ひふくししょうまえ)~1937.7.1上大河~1972.4.1廃止)
?  (旧)比治山駅(1903.1.20~1919.8.1)
?  大河地蔵前駅(おおこうじぞうまえ)(1931.3.20~1931.11.29)
3.3 下大河駅(しもおおこう)(1931.11.25大河~1937.7.1下大河~1966.12.20廃止)
3.8 丹那駅(たんな)(1930.12.20~1966.12.20廃止)
4.1 (旧)丹那駅(1904.6.12~1919.8.1)
4.7 下丹那駅(しもなんな)(1934.12.1人絹裏(じんけんうら)~1937.7.1下丹那~1943.10.1休止)
5.9 宇品駅(うじな)(1897.5.1~1966.12.20廃止)
※強調した駅は旅客営業廃止時点(1966年)に営業していた駅。
※廃止・休止日はその駅の最終営業日の翌日。

接続路線
広島駅:山陽新幹線・山陽本線・芸備線、広島電鉄本線
※旅客営業を行っていた当時(~1972年)山陽新幹線は岡山までの開業だった。(岡山~博多間は1975年3月10日開業)

※広島駅~大須口駅~広島駅東側の貨物ヤード(後年の東広島貨物駅)は三角線となっており、国鉄線として廃止され広島駅0番ホームからの線路が撤去された1972年以降は、東広島貨物駅が宇品線(宇品四者協定線)の基点となった。


備考
宇品線の建設期間は着工日・完成日からすると16日間の突貫工事となるが、実際には以前より建設準備がされていたという説もある。
宇品駅ホームの長さは560mあり、建設当初日本一であった。ホーム上には陸軍糧秣支廠のレンガ倉庫があり、1986年の廃線まで通運業者の倉庫として使用されていた。
貨物営業のみとなった1972年以降は、途中2箇所の踏切(上大河駅南の国道2号線、旧丹那駅付近)を越える際には列車の方が一旦停止し、車道を赤信号にして通過していた。

廃線跡現況<2004年11月現在>

大須口駅付近~上大河駅付近:多くの区間が道路として整備。南段原駅跡など宇品線のモニュメントが作られている箇所がある。


南段原駅跡 2005年6月撮影


上大河駅南側付近(国道2号線交差点)~丹那駅付近(広島南警察署前交差点):道路として整備。
丹那駅付近~宇品駅進入手前(広島高速道路の高架まで):レールは撤去されたが未利用のまま。一部区間には近隣の住民が植えたタチアオイが咲く。
宇品駅部分: 広島高速道路3号線宇品出入口(および高速道路本線用地)となっている。高速道路の工事進展に伴い、宇品線の遺構は糧秣支廠レンガ倉庫も含め1999年~2004年5月までにすべて取り壊された。跡地には糧秣支廠の壁の一部が保存され、記念碑が設置されている。(2004年11月現在ではフェンスに囲まれて近づけない。)
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 楼主| 发表于 2007-1-10 13:34 | 只看该作者
のと鉄道七尾線 Encyclopedia

   


七尾線(ななおせん)は、石川県七尾市の七尾駅と石川県鳳珠郡穴水町の穴水駅を結ぶのと鉄道が運営する鉄道路線である。

本路線は、JR七尾線が1991年に和倉温泉まで電化された際に、非電化のまま残る末端区間の経営をのと鉄道が引き受けたもので、線路等の施設は西日本旅客鉄道(JR西日本)がそのまま所有し、七尾~和倉温泉間 (5.1km) は西日本旅客鉄道との共用区間となっている。

当初、七尾~輪島間が移管されたが、2001年に乗客減少の著しい穴水~輪島間が廃止された。その後も、列車本数の削減等、経営の合理化が進められている。

目次
1 路線データ
2 運転
3 歴史
4 接続路線
4.1 過去の接続路線
5 駅一覧
5.1 現存区間
5.2 廃止区間
6 その他
7 関連項目




路線データ
管轄・路線距離(営業キロ):全長33.1km
のと鉄道(第二種鉄道事業者)・西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者):
七尾~和倉温泉間 5.1km
のと鉄道(第二種鉄道事業者)・西日本旅客鉄道(第三種鉄道事業者):
和倉温泉間~穴水間 28.0km
軌間:1067mm
駅数:8駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:七尾~和倉温泉間(直流1500V)
閉塞方式:特殊自動閉塞式

運転かつては、金沢から直通の急行「能登路」や、自社のパノラマ気動車を使用した急行「のと恋路号」が運転されていたが、輪島方面の急行は穴水~輪島間廃止に先立って2001年3月3日のダイヤ改正で廃止された。

なお、穴水~輪島間廃止後も珠洲方面の急行は残ったが、「能登路」は1年後の2002年3月23日のダイヤ改正で、「のと恋路号」はさらにその半年後の2002年10月に廃止された。なお、2004年夏には能登線廃止を惜しみ金沢~珠洲間で急行「リバイバル能登路号」が運転された。


歴史
1991年9月1日 七尾~輪島間 (53.5km) 開業(第二種鉄道事業。西日本旅客鉄道から移管)
2001年4月1日 穴水~輪島間 (20.4km) 第二種鉄道事業廃止。同時に西日本旅客鉄道の第三種鉄道事業廃止
移管以前については、七尾線を参照。

接続路線
七尾駅:JR七尾線(普通列車)
和倉温泉駅:JR七尾線(特急列車)

過去の接続路線
穴水駅:のと鉄道能登線 - 2005年4月1日廃止。

駅一覧
現存区間
七尾駅 - 和倉温泉駅 - 田鶴浜駅 - 笠師保駅 - 能登中島駅 - 西岸駅 - 能登鹿島駅 - 穴水駅


廃止区間
(穴水駅) - 能登三井駅 - 能登市ノ瀬駅 - 輪島駅

この区間は通称輪島線と呼ばれていた。


その他
廃止区間は能登中央バスが代替バスを運行している。
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 楼主| 发表于 2007-1-10 13:39 | 只看该作者
定山渓鉄道 Encyclopedia

   


定山渓鉄道(じょうざんけいてつどう)は、定山渓鉄道株式会社(現、株式会社じょうてつ)が経営していた、鉄道路線。当初は北海道札幌市(石狩支庁管内)で函館本線白石駅から分岐し、同じく札幌市内の定山渓駅を結んでいたが、1969年に廃止された。東急グループ。

目次
1 路線データ
2 歴史
3 運行系統
4 駅一覧
4.1 廃線直前の駅、停留所
4.2 接続路線
5 廃止後の状況
5.1 駅の位置
5.2 その他、間接的な駅舎存在の痕跡
5.3 路線保存状態
5.3.1 比較的明瞭に残存している区間
5.3.2 路線痕跡のほとんど残っていない区間
5.3.3 痕跡が消失しつつある区間、辿るのが困難な区間
6 札幌急行鉄道
7 参考文献・外部リンク




路線データ
※営業区間以外は廃止時のデータ

路線距離(営業キロ):白石~東札幌~定山渓 29.9km
軌間:1067mm
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:東札幌~定山渓間電化(直流1500V)
閉塞方式:タブレット閉塞式
交換可能駅:7(東札幌、豊平、真駒内、石切山、藤の沢、簾舞、滝の沢)

歴史
1913年に、国鉄の苗穂駅から定山渓に至る軽便鉄道として、定山渓温泉への観光客の輸送、木材の輸送、鉱石と石材の輸送を主な目的として計画された。しかし同年8月の豊平川洪水を受けた護岸工事で当初の敷設予定地が使えなくなった。資金繰りの難もあり、会社の設立は1915年12月に遅れた。白石駅からの路線に変更して1917年4月に着工し、81万2千円の費用をかけて1918年に完成した。10月17日に開業し、白石と定山渓を1時間30分で結んだ。

定山渓鉄道は、定山渓温泉の発展とともに順調に業績を伸ばした。会社は1932年から札幌からのバス運行も始めた。1930年代には木材・鉱石の貨物輸送も増えた。戦時中には温泉客が減り、鉱石・石材輸送に重点がおかれた。資材不足が深刻になり、終戦時には稼働率4割に落ち、列車の窓の三分の一がベニヤ板に変わっていた。

定山渓鉄道の全盛期は戦後復興とともに訪れた。まず、定山渓温泉が繁栄を取り戻した。1949年から1963年まで、定山渓鉄道は、夜間発の往復と、ビール券、とうきび、枝豆、温泉利用をセットにした月見電車を走らせた。会社が整備した豊平川沿いのハイキングコースは、多くの市民に利用された。1944年に事故で閉山した豊羽鉱山が1950年に再開し、定山渓鉄道がその鉱石の輸送を引き受けた。

1957年に、東京急行電鉄が定山渓鉄道の株を買収し、傘下におさめた。しかしこの頃から鉄道は貨物をトラック輸送に奪われはじめた。特に1963年からは豊羽鉱山の鉱石輸送がトラックに切り替えられた。また、東急傘下後打ち出された複線化が達成できず、運転間隔が短縮できないまま道路事情が好転し、結局乗客がバス、マイカーに奪われていった。こうした劣勢の中で、札幌市が札幌市営地下鉄南北線の建設のための土地買収を申し出た。会社はこれに応じて、1969年(昭和44年)に鉄道部門を廃止した。廃止後は電車路線に沿う形で、電車代行バスが運行されていたが、既存のバス系統と合わせて再編される形で1970年に廃止されている。

もともと定鉄の路線バス部門は平岸・澄川・真駒内地区を中心として、平岸本線・平岸東線・西岡線などのバス路線を運行する他、石山通(国道230号線)経由の定山渓線・洞爺湖線(道南バスと2社並立)等を運行していた。しかし、1971年12月16日の札幌市営地下鉄南北線開業により、従来の定鉄バスの営業エリアの多くが地下鉄南北線と競合する形になることから、定鉄は定山渓線(札幌駅・真駒内駅発着)・洞爺湖線を除く市内バス路線全線と車両80両、関連要員を札幌市に移譲することとし、1972年5月1日に移譲が実施された。以後、2000年に札幌市営バスの藻岩線(札幌駅発着系統のみ)の移譲を受けるまで、じょうてつ(1973年商号変更)の路線バス部門は石山・藤野・定山渓地区と、洞爺湖線を中心とした運営に絞られることになる。 2001年から段階的に実施された札幌市営バス事業廃止・民間移譲に伴い、2003年4月1日に札幌市交通局藻岩営業所と関連路線がじょうてつバスに移管された。これに伴い、一部の中央バス路線(中にはもと定鉄バス路線で、札幌市営バス時代に地下鉄路線延長に伴う営業補償等の形で中央バスに移譲された路線も存在する)を除いて、全面的にじょうてつバスが札幌市南部地域のバス路線運営を行うこととなった。

1913年(大正2年)2月12日 松田学ら24名が鉄道敷設申請。7月16日免許。
1915年(大正4年)12月20日 定山渓鉄道株式会社の設立。初代社長は松田学。
1917年(大正6年)4月6日 着工。
1918年(大正7年)10月17日 【開業】白石~定山渓 【駅新設】豊平、石切山、藤の沢、簾舞、定山渓
1920年(大正9年)4月1日 【駅新設】真駒内
1924年(大正13年)1月1日 【駅新設】滝の沢
1926年(大正15年)8月15日 【停留所新設】一の沢
1926年(大正15年)8月21日 【駅新設】東札幌(北海道鉄道(のちの国鉄千歳線旧線)の開通に伴う)
1928年(昭和3年)6月7日 【駅新設】錦橋
1929年(昭和4年)10月25日 【電化】東札幌~定山渓(27.2km)
1931年(昭和6年)7月25日 苗穂駅への電車乗り入れを開始(これに伴い北海道鉄道東札幌~苗穂間が電化)。
1933年(昭和8年)1月7日 【停留所新設】白糸の滝
1933年(昭和8年)11月18日 【停留所新設】北茨木(注1)
1936年(昭和11年)10月20日 【停留場新設】小金湯
1945年(昭和20年)3月1日 【廃止】白石~東札幌(2.7km) 戦時資材供出のため。
1948年(昭和23年)1月1日 【停留所新設】下藤野
1948年(昭和23年)1月11日 【停留所新設】豊滝
1949年(昭和24年)8月 【駅昇格】澄川
1951年(昭和26年)11月1日 【停留所新設】東簾舞
1952年(昭和27年)6月12日 急行列車を設定。当初二等車として運転されたが1954年6月12日に二等車の設定を廃止。
1957年(昭和32年)8月12日 気動車による札幌駅への乗り入れを開始。これに先立ち、東札幌~苗穂間の電化設備を撤去し、同区間への電車乗り入れを中止。
1957年(昭和32年)10月 【駅改称】北茨木→澄川(注1)
1957年(昭和32年)12月7日 東京急行電鉄の傘下に入る。
1959年(昭和34年)4月1日 【停留所新設】慈恵学園
1959年(昭和34年)6月21日 【停留所新設】十五島公園
1961年(昭和36年)4月15日 【停留所新設】緑ヶ丘
1969年(昭和44年)11月1日  【全線廃止】東札幌駅~定山渓駅間(「さよなら電車」によるセレモニーは、1969年10月31日。)
1973年(昭和48年)5月31日 定山渓鉄道株式会社が株式会社じょうてつと改称。
(注1)札幌市教育委員会編『札幌の駅』には、北茨木停留所開業昭和8年11月30日、駅昇格昭和24年8月、澄川駅への改称昭和32年12月とある。


運行系統
廃止直前は、約3分の2が千歳線(旧線)経由で札幌駅~定山渓駅間(国鉄線内は気動車で運行、東札幌もしくは豊平以南で自社の電車に併結)、残り約3分の1が豊平駅~定山渓駅間の運行であった。千歳線内では国鉄の列車と併結しているものもあった。東札幌駅発着の列車もごくわずかに存在した。

豊滝駅は通過する列車が多かった。


駅一覧読みの困難と思われる駅名や、混乱を招く恐れのある駅名は、後に読み仮名を付記した。


廃線直前の駅、停留所
白石駅 - 東札幌駅 - 豊平(とよひら)駅 - 澄川駅 - 慈恵学園(じけいがくえん)停留所 - 真駒内(まこまない)駅 - 緑ヶ丘停留所 - 石切山(いしきりやま)駅 - 藤の沢駅 - 十五島公園停留所 - 下藤野停留所 - 東簾舞(ひがしみすまい)停留所 - 簾舞(みすまい)駅 - 豊滝停留所 - 滝の沢駅 - 小金湯(こがねゆ)停留所 - 一の沢停留所 - 錦橋駅 - 白糸の滝停留所 - 定山渓駅

白石駅~東札幌駅間は1945年廃止。


接続路線
白石駅:函館本線
東札幌駅:千歳線(旧線) - 1973年9月9日函館本線(貨物線)に編入後、1986年11月1日廃止
豊平駅:札幌市電豊平線 - 1971年10月1日廃止

廃止後の状況

石山振興会館(2004年12月)

じょうてつ本社社屋(旧:豊平駅駅舎)


じょうてつ本社社屋裏側。かつてここがホームになっていたことをうかがわせる
駅の位置
豊平駅の駅舎は、じょうてつ本社の社屋の隣で「じょうてつ不動産部」として残存しているが、2005年9月に解体されることが決定した。(右写真、中、下参照。写真には写っていないが、本社社屋と併設である)

澄川駅(旧名称は「北茨木駅」。)は現地下鉄澄川駅の辺りであった。 慈恵学園停留所は現自衛隊前駅よりやや北側の澄川消防署付近。真駒内駅は現自衛隊前駅と現真駒内駅のほぼ中間に存在。 緑ヶ丘停留所は現真駒内駅の南はずれ辺りにあった。旧停留所に上がる階段の取付部分の道路擁壁が廃止当時のまま残されており、位置の推定が可能。

石切山駅の駅舎は、現在「石山振興会館」として大部分が残存している。(右上写真参照。)

藤の沢駅は現在の札幌南消防署藤野出張所よりやや石山寄りの藤野東公園内。(同公園内には、駅跡の標柱が立っている。) 十五島公園停留所は郊外型大型店舗の並ぶ傍のパチンコ店辺りにあった。現在は同公園につながるバス停があるが、駅舎のあった位置とは変わっている。 下藤野停留所は某金融機関からその隣の寺院の裏手にあった。現在は、個人住宅地となっている。(住宅地内道路脇に標柱がある。)また、そこは、後に新旧国道230号分岐点西側の変電所付近へ移設したとされる。

東簾舞停留所は御陵橋付近の現バス停付近に存在。 簾舞駅は旧簾舞市街のやや西側、砥山通りへと渡る橋の傍に位置し、木材置き場として使われていたが、現在は広大な空き地となっている。

豊滝停留所は、現在の国道230号沿いの豊滝道の駅の下(豊平川寄り)のやや東側に位置していたが、現在は跡地への道も消失。付近築堤や橋梁跡も、崩落の危険がある。 滝ノ沢駅は、豊滝小学校のある旧道から砥山通りへ下るT字路交差点付近にあり、当時の駅長が敷地内に植林したといわれる、桜の木(ソメイヨシノ)が残っている。

小金湯停留所は現温泉街より東寄りの神社付近に位置していたが、周辺道路拡張に伴い、大部分の痕跡が消失。 一の沢停留所は、豊平川の砥山ダム上流辺りの現・同名バス停の豊平川寄り付近。

錦橋駅は、定山渓の東はずれ、国道230号が分岐した豊平川寄りの旧道、同バス停付近に、当時の駅舎の礎石跡が存在している。 白糸の滝停留所は、定山渓市街はずれにある現・北海道秘宝館の位置。 終点の定山渓駅は、商店街やホテル駐車場を超えて、中山峠側の定山渓スポーツ公園内に位置していた。廃止後もしばらく、旧駅舎がバス乗車券発売所等として使用されていたが、1976年頃に解体されている。


その他、間接的な駅舎存在の痕跡
ただし、真駒内駅、藤の沢駅、東簾舞停留所の駅舎自体は残っていないが、当時その正面に位置していたという、それぞれ、日通支店(現・タイヤ販売店)、商店街(現・商店、簡易郵便局等)、旅館(現・民家)として使用されたといわれている建築物は、2004年現在も残存している。

その多くは、前述のとおり、一部を除いて、その痕跡は失われている。


路線保存状態

比較的明瞭に残存している区間
(東札幌駅近辺は、現在、札幌コンベンションセンターとなっている。また、南郷通-国道36号間は、路線跡が、道路、倉庫、空き地などになっていて、豊平駅からもほぼ一直線に目指すことができ辿り易い。ただし、旧千歳線にも関係するこの区間は、通常は含めない場合も多い。)
豊平駅‐澄川駅間は、道路及び、地下鉄用地として利用されている。
特に、現・地下鉄平岸駅‐南平岸駅間の途中からは、地上に上がり地下鉄シェルターとなっているため、現・地下鉄真駒内駅までは明確になっている。ただし、地下鉄が地下に下がってから先の豊平駅までの間は分かりづらいが、地図を辿れば、道路としてそのまま利用されている痕跡が残っているのでわかりやすい。
緑ヶ丘停留所から藤の沢駅までの区間は、現・地下鉄真駒内駅から計画されていた地下鉄南北線延長区間の用地として、廃止時に札幌市へ譲渡されていた。
地下鉄延長計画が凍結された現在、その区間以外も含めての多くは空き地となり、森林、畑、駐車スペース、自動車道、歩行者専用道路、公園内散策路やサイクリングロードなどにも、分割活用されている。
緑ヶ丘停留所からは石切山駅方面に向かって森林となり、鉄道跡を寸断する形の交差点近辺はじょうてつバス転回場兼駐車場となっている。
交差点からは森林及び歩道となり、石山陸橋下トンネルから続く自動車道と歩道とが合流。(同トンネルについては、次参照。)
石山陸橋はもともと、旧国道230号線(藻南橋方向~石山中央方向)と国道453号線(真駒内花園方向~常盤方向)が合流する地点に、道路が定鉄をオーバークロスする跨線橋として架設されていた。鉄道廃止後もしばらく跨線橋は残存していたが、交差点改良による拡幅でまず跨線橋の西側(石切山側)が埋設され、後に東側も埋設された。その後、改めて旧跨線橋の地点にトンネルが構築されたが、しばらく放置されていた。地下鉄南北線延長計画が頓挫し後に延長中止が正式決定され、現在、このトンネルは一方通行の一車線自動車道(石山→真駒内方向)として活用。
上記トンネル以南、石切山駅を中心とした南北付近は、歩道付き自動車道からはずれ、公園内の舗道(散策路)となり、再び車道や生活道路、空き地となっている。)
東簾舞停留所から小金湯停留所までの一部区間は、砥山通などの自動車道として拡幅され活用されている。
現・地下鉄真駒内駅~旧・じょうてつ藤野沢駅の間の土地が、比較的最近まであるいは、現在も放置されたままだったり、あるいは様々に活用されていて、かつての路線跡として辿り易いのは、こういった理由が大きい。
下藤野停留所や簾舞駅から錦橋駅までの築堤は、豊平川の河岸段丘や段差を利用したことや、地盤の脆弱さから、営業中にたびたび補修を要した。放置された現在では崩落している区間も少なくはなく、危険な地域もあり、笹薮や森林に帰っている所も多い。(詳細後述。)

路線痕跡のほとんど残っていない区間
藤の沢駅-下藤野停留所間は、郊外型大型店舗敷地内として買収され、国道230号拡幅と相まって、位置の確定が困難。(連合町内会などが中心となって作成された一部地図には、この区間の路線跡が記されているが、実測された上で記されたものか、当初の地図と重ね合わせたものかは不明。)
定山渓駅-白糸の滝停留所(-錦橋駅)間は、路線痕跡が残っていないといっていいほど消失。ほとんどが、ホテルなどの敷地として買収され、商店街に吸収され、一部のみ、生活道路や公園内歩道として残っているとされるが、鉄道跡をそのまま利用したものかは不明。

痕跡が消失しつつある区間、辿るのが困難な区間
錦橋駅-小金湯停留所間は、路線位置確認が困難になりつつある。
滝ノ沢駅-豊滝停留所間は、豊平川河岸段丘を利用しているため、崩落した箇所も多く、きわめて危険。加えて、前述の通り、豊滝停留所への歩行者専用道路も獣道化し、消失。
東簾舞停留所-下藤野停留所間は、途中までは畑やその中の通路として利用され、その先は豊平川河岸段丘を利用していて、高圧電線用の鉄塔もあるが、途中は崩落しかかっている箇所もあり藪や森林となっている。以前は遊歩道として記されている地図もあったが、現在は物理的に通行不可能。さらに、学校法人の敷地内へと入り実質の痕跡は消失。
その先の下藤野停留所までは、車道脇や個人住宅の土台や敷地内にそれらしいと思われる痕跡もあるが、現在は見解が分かれていて、当時の同鉄道築堤の痕跡を利用したものかどうかまでは検証不可能。

札幌急行鉄道1958年、親会社となった東急社内に札幌付近陸上交通機関整備委員会が設置され、この委員会で定山渓鉄道の複線化ならびに中山峠方面への路線延長と札幌乗り入れ、および資本金6億円で「札幌急行鉄道」を設立して札幌~上江別間20.5kmの地方鉄道を新規開設し、上江別から夕張鉄道線に乗り入れて、札幌から夕張までを直結させる事が決まった。東急は早速夕張鉄道の親会社である北炭と共同で設立にとりかかり、免許申請を行った。

東急は、札幌市内を地下鉄で建設し、この新設鉄道を鎹にして定山渓鉄道・夕張鉄道の一元化を図り一大私鉄網を築いて、北海道振興に寄与する事を最終目的としていた。

しかしながら、その後東急社内による調査の結果、札幌急行鉄道を新規開業する事による投資効果が希薄であり、不採算事業となるだけであると判断されて、結局札幌急行鉄道は設立されず、免許申請も取り下げてしまった。


参考文献・外部リンク
札幌市教育委員会編『札幌の駅』(さっぽろ文庫11)、北海道新聞社、1979年。
札幌市教育委員会編『定山渓温泉』(さっぽろ文庫 59)、北海道新聞社、1991年。
『東京急行電鉄50年史』、東京急行電鉄、1973年。
札幌LRTの会『札幌市電が走った街 今昔』、JTB(現 JTBパブリッシング)、2003年。
じょうてつホームページ
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 楼主| 发表于 2007-1-10 13:44 | 只看该作者
別府鉄道土山線 Encyclopedia

   


土山線(つちやません)は、兵庫県加古川市の別府港駅から兵庫県加古郡播磨町の土山駅を結んでいた別府鉄道の鉄道路線。1984年に廃止された。

野口線と同じく、別府港にある多木製肥所(現在の多木化学)で製造された化学肥料などを運ぶために開業した路線。旅客営業も行っていたが、山陽本線と接続しているため国鉄との連絡貨物輸送が主体であった。

目次
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧
5 接続路線




路線データ
路線距離(営業キロ):4.1km
軌間:1067mm
駅数:3駅(起終点駅含む、信号所除く)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)

運行形態
1984年1月時点で、1日4往復の旅客列車が運行されていた。


歴史
1923年3月18日 別府港~新土山(のちの土山)間が開業。
1984年2月1日 別府港~土山間廃止。(バス転換されず)

駅一覧
別府港駅 - 中野駅 - 川崎車輛工場前信号所 - 土山駅


接続路線
別府港駅:別府鉄道野口線
土山駅:山陽本線
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 楼主| 发表于 2007-1-10 13:47 | 只看该作者
えちぜん鉄道勝山永平寺線 Encyclopedia

   


勝山永平寺線(かつやまえいへいじせん)は、福井県福井市の福井駅から福井県勝山市の勝山駅までを結ぶえちぜん鉄道の鉄道路線である。

2003年にえちぜん鉄道へ譲渡されるまでは京福電気鉄道が運営していた。九頭竜川に沿って織物の町勝山を結んでいる。京福時代は永平寺口駅(当時は東古市駅)から曹洞宗の大本山である永平寺への参詣路線として永平寺線が分岐していた。

目次
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧
4.1 廃止区間
5 接続路線
5.1 過去の接続路線
6 関連項目




路線データ
路線距離(営業キロ):福井~勝山間 27.8km
軌間:1067mm
駅数:23駅(起終点駅含む)
複線区間:福井~越前開発間
電化区間:全線電化(直流600V)
閉塞方式:自動閉塞式

運行形態
京福時代は急行列車なども運転されていたが、えちぜん鉄道移管後は全て普通列車である。比島駅停車・通過列車が交互に運転される。朝と平日深夜に主要駅停車列車がある。ワンマン運転を実施している。


歴史
福井県で電源開発を行っていた京都電灯の手により、1914年に越前電気鉄道として新福井~市荒川(現在の越前竹原)間が開業したのが始まり。福井県下初の電気鉄道であった。 同年中に大野口まで開業し、福井と大野が結ばれた。

配電統制令により鉄道兼営が禁じられたため京都電灯の鉄軌道事業を1942年に京福電気鉄道が継承。同社福井支社の越前本線となった。

自家用車の普及などで1960年代以降になると不採算区間の合理化が行われ、国鉄越美北線とも競合する越前本線の勝山~京福大野間が1974年に廃止される。

残る区間も維持してきたものの、京福電気鉄道は1992年に越前本線の東古市以東と永平寺線の廃止を表明。県などが行政支援を講じてきたが2000年と2001年に正面衝突事故を起こし休止となり、2003年にえちぜん鉄道へ譲渡され越前本線は勝山永平寺線に改称。同年運行が再開された。

1914年2月11日 京都電灯により新福井~市荒川(現在の越前竹原)間が開業。
1914年3月11日 市荒川~勝山間が開業。
1914年4月10日 勝山~大野口間が開業。
1918年9月1日 大野口~大野三番(のちの京福大野)間が開業。
1929年9月21日 福井~新福井間が開業。旅客営業のみ。
1942年3月2日 京都電灯の鉄軌道事業を京福電気鉄道が継承。越前本線となる。
1948年6月28日 福井地震のため全線不通に。8月に全線復旧。
1974年8月13日 勝山~京福大野間が廃止。
1980年8月1日 福井口~勝山間の貨物営業廃止。
1980年10月26日 新福井~福井口間の貨物営業廃止。
2000年12月17日 志比堺~東古市間で越前本線と永平寺線の電車が正面衝突。
2001年6月24日 保田~発坂間で電車同士の正面衝突事故。全線運行休止に。
2003年2月1日 えちぜん鉄道へ譲渡。越前本線を勝山永平寺線に改称。
2003年7月20日 福井~永平寺口間が運行再開(前日特別運転)
2003年10月19日 永平寺口~勝山間が運行再開(前日特別運転)

駅一覧
福井駅 - 新福井駅 - 福井口駅 - 越前開発駅 - 越前新保駅 - 追分口駅 - 東藤島駅 - 越前島橋駅 - 観音町駅 - 松岡駅 - 志比堺駅 - 永平寺口駅 - 下志比駅 - 光明寺駅 - 轟駅 - 越前野中駅 - 山王駅 - 越前竹原駅 - 小舟渡駅 - 保田駅 - 発坂駅 - 比島駅 - 勝山駅


廃止区間
勝山駅 - 蓬生駅 - 大袋駅 - 嵭崎駅 - 下荒井六呂師口駅 - 新在家駅 - 中津川駅 - 大野口駅 - 京福大野駅

※駅名は廃止時点のもの。


接続路線
福井駅:北陸本線、福井鉄道福武線(福井駅前駅)
福井口駅:えちぜん鉄道三国芦原線

過去の接続路線
永平寺口駅:京福電気鉄道永平寺線 - 2001年6月25日から運休、2002年10月21日全線廃止。
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 楼主| 发表于 2007-1-10 13:49 | 只看该作者
尾小屋鉄道 Encyclopedia
   


尾小屋鉄道の路線図
尾小屋鉄道(おごやてつどう)は、石川県小松市の新小松駅から同市尾小屋駅までを結んでいた軽便鉄道である。

尾小屋鉄道は、尾小屋鉱山の鉱山鉄道として建設された。

尾小屋鉱山は、17世紀末~18世紀初頭に金山として開発された鉱山だが、その後廃鉱となっていた。明治時代になってから銅山として改めて注目され、細々とした採掘の末、1886年(明治19年)の新鉱脈が発見されてから大きく発展した。閉山は1971年(昭和46年)。

尾小屋鉄道は、この尾小屋鉱山の鉱山鉄道として1919年(大正8年)から1920年(大正9年)にかけて開通した。全線非電化で762mm軌間を採用した軽便鉄道であった。廃止は1977年(昭和52年)。

目次
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧
5 接続路線
6 車輌
7 関連施設
8 関連項目
9 外部リンク




路線データ
路線距離(営業キロ):16.8km
軌間:762mm
駅数:16駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:票券閉塞式(末期の金平~尾小屋間はスタフ閉塞式)

運行形態1973年5月の時点で、旅客列車一日16往復、貨物列車および混合列車の設定はなかった。交換設備は、吉竹駅・西大野駅・金平駅・観音下駅にあったが、1959年9月のダイヤでは、すでに吉竹駅での閉塞取り扱いは行われていない。末期の閉塞は新小松・金平と金平・尾小屋の二区間に統合され、列車の交換が行われるのは金平駅のみとなっていた。


歴史
1916年(大正5年)8月17日 免許取得(正田順太郎)。
1917年(大正6年)6月22日 工事着工。
1919年(大正8年)11月3日 一部竣工。
1919年(大正8年)11月26日 竣工区間を開業(旅客および手小荷物)。
1920年(大正9年)4月1日 貨物取扱い開始。
1920年(大正9年)5月10日 全線を竣工。
1920年(大正9年)6月4日 横山鉱業部鉄道に改称。
1920年(大正9年)6月11日 合名会社横山鉱業部が正田順太郎から経営を引き継ぐ。
1929年(昭和4年)6月22日 尾小屋鉄道株式会社が発足。
1929年(昭和4年)7月2日 尾小屋鉄道に改称。
1936年(昭和11年)7月 日本鉱業(現日鉱金属)の系列会社となる。
1937年(昭和12年)2月 内燃動力併用認可。
1950年(昭和25年)12月20日 一般乗合旅客自動車運送事業の免許を受ける。
1962年(昭和37年)9月 日本鉱業が経営から手を引き、名古屋鉄道の系列会社となる。
1971年(昭和46年) 尾小屋鉱山閉山。
1977年(昭和52年)3月20日 尾小屋鉄道廃止。
なお、尾小屋鉄道株式会社は、小松バス株式会社と社名を変更し、存続している。


駅一覧新小松駅 -2.7km- 西吉竹駅 -0.4km- 吉竹駅 -1.0km- 遊園地前駅 -1.3km- 花坂駅 -0.9km- 西大野駅 -0.9km- 大杉谷口駅 -0.5km- 金野町駅 -1.3km- 金平駅 -1.7km- 沢駅 -0.5km- 塩原駅 -0.9km- 波佐羅駅(はさら) -0.7km- 観音下駅(かながそ) -2.0km- 倉谷口駅 -1.1km- 長原駅 -0.9km- 尾小屋駅


接続路線
新小松駅:北陸本線(小松駅)

車輌主な車輌は以下の通り。

機関車

1号
1917年大日本軌道製の蒸気機関車。下回りの一部をDC121に流用したとされるが、実質的には下取りであり、部品が実際に流用されたかどうかは不明。
2号
1917年大日本軌道製の蒸気機関車。DC122の増備により1958年(昭和33年)に廃車された。
3号
1941年本江機械製作所製の蒸気機関車。
5号
1947年立山重工業製。C155とも。地方鉄道向けのものとしては国産最後の蒸気機関車となった。末期にはファン・ランで走る程度ではあったが、車籍は最後まで残されていた。廃線後は尾小屋鉱山資料館で保存されている。
DC121
1952年協三工業製。丸みを帯びたボディを持つロッド式ディーゼル機関車。廃線後は小松児童会館にある「なかよし鉄道」で動態保存されている。
DC122
1958年協三工業製。角ばったボディを持つロッド式ディーゼル機関車。廃線後は尾小屋駅で保存されているが、事実上放置状態となっている。
気動車

キハ1
1937年日本車輌製のガソリン気動車(のちディーゼル機関に換装)。前後非対称のボディを持つ。廃線後は小松児童会館にある「なかよし鉄道」で動態保存されている。
キハ2
1938年日立製作所製のディーゼル気動車。前後に荷物台(デッキ)を持つ。廃線後は尾小屋駅構内で保存されている。
キハ3
1949年汽車会社製のディーゼル気動車。前身は遠州鉄道奥山線1803で、"180"の部分を塗りつぶして使用していた。廃線後は尾小屋鉱山資料館で保存されている。
客車

ハフ1型
1918年名古屋電車製作所製の2軸客車。ハフ1~ハフ3の3輌があったが、ハフ3は1967年に車軸が折れたため先行して廃車された。廃線後ハフ1は尾小屋鉱山資料館で保存されている。
ホハフ1型ホハフ1
1912年日本車輌製のボギー客車。前身は三重交通のサ311。デッキつきモニタルーフの古典的客車だった。廃線前に解体された模様。
ホハフ1型ホハフ2
1913年名古屋電車製作所製のボギー客車。前身は三重交通のサ342。デッキつき。
ホハフ1型ホハフ3
1921年梅鉢鉄工所製のボギー客車。前身は三重交通のサ321。前後非対象の特徴的な車体を持っていた。その後車体更新を受け、最後まで多用された。廃線後は小松児童会館にある「なかよし鉄道」で動態保存されている。
ホハフ1型ホハフ5
1921年梅鉢鉄工所製のボギー客車。前身は三重交通のサ322。前後非対称の特徴的な車体を持っていた(尾小屋鉄道ホハフ1型ホハフ3とは形態は異なる)。
ホハフ1型ホハフ6
1913年名古屋電車製作所製のボギー客車。前身は三重交通のサ352。
ホハフ1型ホハフ7
1925年日本車輌製のボギー客車。前身は三重交通のサニ4103。オリジナルは荷物室を持つ合造車で、その後車体更新を受け、最後まで多用された。廃線後は尾小屋駅構内で保存されている。
ホハフ1型ホハフ8
1924年日本車輌製のボギー客車。前身は三重交通のサニ401。オリジナルは荷物室を持つ合造車で、その後車体更新を受け、最後まで多用された。廃線後は小松児童会館にある「なかよし鉄道」で動態保存されている。
貨車・事業用車両

ト型
2軸の無蓋貨車。トフ1-3・ツ1-9・ト8-9・ト10-19・ト20-22のグループに分かれる。
ワフ型
2軸の有蓋貨車。ワフ1-5があった。一部に第二次世界大戦中、代用客車として使われたものがある。
タボ1200
ボギーの長物車で車籍はなかった。
ロータリー車
自社製造の除雪車。

関連施設
石川県小松市の石川県立小松児童会館に併設して「なかよし鉄道」と名づけられた総延長473mの保存鉄道(水曜日、土曜日、日曜日及び祝日に運転)が設けられており、尾小屋鉄道の車輌4輌が動態保存されている(キハ1・DC121・ホハフ3・ホハフ8)。最寄り駅は北陸本線粟津駅。
石川県小松市尾小屋町の尾小屋鉱山資料館に併設された「ポッポ汽車展示館」では、尾小屋鉄道の車輌3輌が静態保存されている(5号機関車・キハ3・ハフ1)。なお、キハ3は2004年にエンジンを修復し、走行も可能な状態に維持されている。

関連項目
日本の鉄道路線一覧

外部リンク
尾小屋鉄道ホームページ (個人のファンクラブページ)
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 楼主| 发表于 2007-1-10 13:52 | 只看该作者
尾道鉄道 Encyclopedia
   


旧尾道鉄道4号トンネル(2005年8月撮影)
尾道鉄道(おのみちてつどう)は、かつて広島県の尾道市と御調郡御調町(現在の尾道市の一部)を結んでいた鉄道路線、およびその運営会社である。 設立当初は尾道~市~宇津戸~上下間の鉄道敷設を目指し、また現在の三次市に至る支線も計画していたが、財界不況等の為実現せず、尾道市近辺のわずかな区間を開業したのみにとどまった。

尾道市街地と山中の集落を結ぶ盲腸線であり、営業成績は運行当初から余り芳しいものとは言えず、モータリゼーションの進行に伴い1964年までに廃止され、路線バスの運行に切り替えられた。

会社自体はその後も社名を変更せずバス事業者として営業を続けたが、1970年にニコニコバスに吸収合併され解散。事業はニコニコバスから社名変更した中国バスに引き継がれた。

目次
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧
5 接続路線
6 廃線後の現状
7 参考文献




路線データ
※廃止直前のデータ

路線距離(営業キロ):16.8km
軌間:1067mm
駅数:18駅(起終点駅、御所橋駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線電化(直流600V)
閉塞方式:
尾道~三成間:タブレット閉塞
三成~市間:票券閉塞

運行形態
所要時間:尾道~市間54分(1934年12月改正時)・51分(1955年8月改正時)
運行間隔:開業時から廃止時まで、ほぼ60分間隔

歴史

1925年11月1日 - 【開業】西尾道~石畦(いしぐろ)
1926年4月28日 - 【延伸開業】石畦~市
1931年9月12日 - 【延伸開業】御所橋~西尾道
1933年3月28日 - 【延伸開業】尾道~御所橋。同時に国鉄との連絡運輸を開始。
1941年9月 - 尾道自動車を合併。路線バス事業を兼営。
1946年8月13日 - 市行き列車が畑駅付近で故障。傾斜区間であったため軌道を逆走、暴走し、石畦駅北方のカーブで脱線転覆。多数の死傷者を出す。
1957年2月1日 - 【廃止】石畦~市
1964年8月1日 - 【廃止】尾道~石畦。これ以後、社名を変更しないままバス専業となる。
1970年2月 - ニコニコバスに吸収合併され会社解散。同時にニコニコバスは社名を中国バスに改称。
当初、終点の市駅を起点に連絡バスを走らせていたが、平行する国道184号の改良に伴い、次第に尾道駅からの運行に切り替わっていった。このため、自社の路線バスが鉄道部門のライバルとなるという珍しい事態となった。特に石畦以北ではバスの方が集落に近く、利便性に優れていた為、鉄道利用客を奪っていったと伝える。


駅一覧
※呼称は廃止時点のもの。*印の駅は路線廃止前に廃止された駅。

尾道駅 - *御所橋駅 - 西尾道駅 - 地方事務所裏駅 - 青山病院前駅 - 宮ノ前駅 - 栗原駅 - 尾道高校下駅 - 三美園駅 - 三成駅 - 木梨口駅 - 遊亀橋駅 - 木頃本郷駅 - 石畦駅 - 西校上駅 - 畑駅 - 諸原駅 - 市駅

諸原駅については高低差が激しい為、スイッチバックで峠越えを行っていた。

接続路線
※呼称は廃止時点のもの

尾道駅:国鉄山陽本線(尾道駅)

廃線後の現状現在の尾道駅の北側から尾道鉄道線が発着していた。駅跡は現在駐輪場等に使用されている。西尾道駅跡には、現在ホテルが建設されている。市街地においては、僅かに橋桁等が残っている。石畦~畑間の盛土区間については、しばらく放置されていたが、改良工事の上、1986年に国道184号バイパスとして開通した。一部のトンネルが歩行者用として再利用されたほか、国道のルートから外れたトンネルが、現在でも煉瓦造りの姿をそのままに残している。現在、当該区間には、かつての電車線の終点、市へ、また市より別の起業家が鉄道敷設を目指した府中方面へのバスが数本走っている。三成にあった車庫は現在中国バスの尾道営業所、市駅跡は市出張所となっている。

在来線とは離れた位置に建設された新尾道駅付近を走行しており、仮に現在も鉄路が残っていれば鉄道による連絡も可能であったと思われる。また、上下・三次には福山から。現在の福塩線が伸び、福山市と鉄道で結ばれることになったが、仮に尾道鉄道が全線開通していれば、県北部と備後地域の結びつき等は、現実とは大きく違ったものになっていたといえる。


参考文献
前田六二著『消えた鐵路 尾道鐵道』
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 楼主| 发表于 2007-1-10 13:54 | 只看该作者
小松島線 Encyclopedia

   


小松島線(こまつしません)とは、徳島県小松島市の中田駅から同市内の小松島駅までを結んでいた日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。国鉄路線としては、最も営業キロが短い路線として知られていたが、1980年の国鉄再建法施行を受けて特定地方交通線に指定され、1985年に廃止された。

目次
1 路線データ
2 歴史
3 接続路線
4 駅一覧




路線データ
管轄:日本国有鉄道
区間(営業キロ):中田~小松島(小松島港仮乗降場)(1.9km)
駅数:2(起点駅を含む。他に仮乗降場1)
軌間:1067mm
複線区間:なし(全線単線)
電化方式:全線非電化

歴史
小松島線は、大阪や和歌山からの航路の四国側の玄関口となった小松島と徳島を結ぶために、阿波国共同汽船が建設した鉄道で、1913年の開業時から国が借上げて、小松島軽便線(こまつしまけいべんせん)として営業を開始した。1916年に、途中の中田を起点にして阿南鉄道(現在の牟岐線)が開業。その翌年には、小松島軽便線は正式に買収・国有化され、1922年の軽便鉄道法廃止とともに小松島線となった。

1940年には、小松島港に発着する航路との連絡の便を図るため、小松島駅構内に小松島港仮乗降場が開設され、晩年に至るまで急行列車が発着した。また、構内には小松島客貨車区及び徳島気動車区の支区が設置され、徳島地区の交通の中枢となっていた。

1961年、徳島~中田間が分離のうえ牟岐線に統合され、それ以来、国鉄最短の鉄道路線となった。そして、それが、小松島線の運命を決定することとなった。1981年に不採算ローカル線として第1次特定地方交通線に選定されることとなるのである。しかし、実質フェリー乗り場との乗り換えの需要のよさや、廃止後の急激な小松島港の縮小により、地元では未だに「中央の机上の論理による政治廃線」だとして不満がくすぶっている。

1913年4月20日 【開業】小松島軽便線(阿波国共同汽船借入) 徳島~小松島(11.1km) 【駅新設】二軒屋、地蔵橋、小松島
1916年12月15日 【駅開業】中田(阿南鉄道中田~羽ノ浦間開業)
1917年9月1日 【買収】小松島軽便線 徳島~小松島
1922年9月2日 【線名改称】小松島線(軽便鉄道法廃止による)
1934年9月20日 【駅新設】富田浦、丈六
1940年3月15日 【仮乗降場新設】小松島港(小松島駅構内。事実上は延伸)
1941年8月10日 【駅休止】丈六
1961年4月1日 【起点変更】小松島線 中田~小松島(小松島港)(1.9km) (徳島~中田間(9.2km)を分離し、牟岐線に編入) 【駅所属変更】富田浦、二軒屋、地蔵橋、中田 
1984年2月1日 【貨物営業廃止】全線
1981年9月18日 第1次特定地方交通線として廃止承認
1985年3月14日 【廃止】全線(-1.9km)。バス転換

接続路線
中田駅:牟岐線

駅一覧
中田駅 - 小松島駅 - 小松島港仮乗降場
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 楼主| 发表于 2007-1-10 18:54 | 只看该作者
山形交通三山線 Encyclopedia

   


三山線(さんざんせん)は、山形県寒河江市の羽前高松駅と西村山郡西川町の間沢駅を結んでいた山形交通の鉄道路線である。1974年に全区間が廃止された。

目次
1 路線データ
2 歴史
3 駅一覧
4 接続路線
5 外部リンク




路線データ
管轄:山形交通
区間・路線距離(営業キロ):羽前高松~間沢 11.4km
軌間:1067mm
駅数:10(起点駅を含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:全線(直流600V)
閉塞方式:

歴史
出羽三山への参詣客の輸送や、永松・幸生・高旭など鉱山との物資の運搬を目的に、1926年(大正15年)12月23日に三山電気鉄道として、鉄道省線左沢線羽前高松駅と海味駅の間(8.8㎞)で営業を開始した。1928年(昭和3年)9月、海味駅から間沢駅まで延長。1943年(昭和18)10月、三山電気鉄道は、高畠鉄道(高畠線)、尾花沢鉄道(尾花沢線)と合併し、山形交通と社名を変更、同社の三山線となった。

白岩発電所・沼山発電所など、寒河江川水系の水力発電による豊富な電力資源をバックに、三山電気鉄道当初の経営は順調であり、鶴岡までの延伸が提案された程だという。1935年(昭和10年)10月には谷地軌道を買収し、神町~谷地間のバスの運行も始めている。また、間沢の菊まつりの開催や、上野・海味のスキー場への誘客など、沿線の観光資源開発にも熱心であった。だが、相次ぐ鉱山の閉山と、1960年代以降のモータリゼーションの進行により業績が悪化し、1974年(昭和49年)11月18日、羽前高松駅~間沢駅間(11.4㎞)の全線を廃止した。


駅一覧
羽前高松駅 - 新田停留所(以上西村山郡高松村、現寒河江市) - 白岩駅 - 上野停留所 - 羽前宮内駅(以上同郡白岩町、現寒河江市) - 石田停留所 - 睦合停留所 - 海味駅 - 西海味駅 - 間沢駅(以上同郡西山村、現同郡西川町)


接続路線
羽前高松駅:左沢線

外部リンク
減速進行
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 楼主| 发表于 2007-1-10 18:56 | 只看该作者
妻線 Encyclopedia

   


妻線(つません)とは、宮崎県宮崎郡佐土原町の佐土原駅と西都市の杉安駅とを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。1980年の国鉄再建法施行にともない第1次特定地方交通線に指定され、1984年に全線が廃止された。

目次
1 路線データ(廃止時)
2 歴史
3 駅一覧
4 接続路線




路線データ(廃止時)
管轄:日本国有鉄道
区間(営業キロ):佐土原~杉安 19.3km
軌間:1067mm
駅数:6駅(起点駅を含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:スタフ閉塞式

歴史
妻線は、宮崎駅に最初に乗入れた鉄道である。宮崎駅へは現在の吉都線を経由して都城方面から官設鉄道(宮崎線)が延伸されるはずであったが、工事が遅れ、1913年に先に妻方面への宮崎県営鉄道が開業を果たしたものである。宮崎駅へは1916年10月に宮崎線が到達、県営鉄道も1917年9月に買収・国有化され、妻軽便線(つまけいべんせん。1922年に軽便鉄道法廃止により妻線に改称)となった。1920年9月には、宮崎本線の高鍋延長にともない、広瀬駅を移転して分岐駅とし、宮崎~広瀬間を妻軽便線から分離して宮崎本線に編入した。1922年8月には妻~杉安間が開業し、全通した。

1944年には、末端部の妻~杉安間が不要不急線として休止となったが、1947年に復活している。

結局実用化はされなかったが、貨物輸送の合理化のために試作された気動貨車キワ90形の試用線区となるなど、典型的なローカル線であり、1968年には赤字83線の一つとして廃止を勧告され、1980年の国鉄再建法の施行により第1次特定地方交通線に指定、1984年に廃止された。しかし、地元の鉄道への愛着は深く、廃止時の協定により、将来の復活に備えて、全線にわたり線路が撤去されずに残されている(自転車歩行者専用道路として現在利用されている)。

また、改正鉄道敷設法別表第122号には、終点の杉安から湯前線湯前への予定線が計画されていたが、着工されないまま1944年に省営バス(国鉄バス)路線が開設された。一時は日肥本線として路線が人吉に拡大されるなど隆盛を見せたが、1997年にJR九州バスが撤退し、2004年現在、西米良村営バスと宮崎交通バスにより営業が継続されている。

1913年12月25日 【開業】宮崎県営鉄道 宮崎~福島町 【駅開業】宮崎、花ヶ島、蓮ヶ池(初代)、次郎ヶ別府、広瀬(初代)、福島町
1914年4月26日 【延伸開業】福島町~佐土原 【駅開業】佐土原(初代)
1914年6月1日 【延伸開業】佐土原~妻 【駅開業】黒生野、妻
1917年9月21日 【買収・国有化】妻軽便線 宮崎~妻 【駅廃止】蓮ヶ池(初代)
1920年9月11日 【起点変更】広瀬~妻(宮崎本線広瀬(2代)~高鍋間開業にともない、宮崎~広瀬間を宮崎本線に編入) 【駅新設】広瀬(2代) 【駅廃止】広瀬(初代)、福島町 【駅所属線区変更】花ヶ島、次郎ヶ別府
1922年8月20日 【延伸開業・全通】妻~杉安 【駅新設】穂北、杉安
1922年9月1日 【線名改称】妻軽便線→妻線
1944年12月1日 【休止】妻~杉安 【駅休止】穂北、杉安
1947年3月20日 【営業再開】妻~杉安 【駅再開】穂北、杉安
1965年6月1日 【駅名改称】佐土原(初代)→西佐土原
1965年7月1日 【駅名改称】広瀬→佐土原(2代)
1972年3月15日 【貨物営業廃止】全線(-19.3km)
1981年9月18日 第1次特定地方交通線として廃止承認
1984年12月1日 【廃止】全線(-19.3km) バス転換

駅一覧
佐土原駅(さどわらえき)
当線の起点。詳しくは駅の記事を参照のこと。
西佐土原駅(にしさどわらえき)
佐土原起点6.0km。廃止時は1面1線の委託駅であった。
歴史:1914年4月26日佐土原駅として開業、1965年6月1 西佐土原に改称
黒生野駅(くろうのえき)
佐土原起点10.0km。妻線でもっとも乗降が少なかった。廃止時は1面1線の無人駅であった。
歴史:1914年6月1日開業
妻駅(つまえき)
佐土原起点13.5km。西都市の中心で乗降も多かった。交換設備がいつでも使えるよう用意されていた。「妻の入場券」という歌があったほどで入場券が人気であった。廃止時は委託駅であった。
歴史:1914年6月1日開業
穂北駅(ほきたえき)
佐土原起点16.7km。廃止時は1面1線の無人駅であった。
歴史:1922年8月20日開業、1944年11月11日休止、1947年3月20日復活
杉安駅(すぎやすえき)
佐土原起点19.3km。当線の終着駅。廃止時は1面1線の無人駅であった。
歴史:1922年8月20日開業、1944年11月11日休止、1947年3月20日復活

接続路線
佐土原駅:日豊本線
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 楼主| 发表于 2007-1-10 18:57 | 只看该作者
大社線 Encyclopedia

   

この項目では出雲市駅と大社駅間を結んでいた西日本旅客鉄道の大社線について説明しています。
一畑電気鉄道の大社線については一畑電気鉄道大社線の項目をご覧ください。

大社線(たいしゃせん)は、島根県出雲市の出雲市駅から島根県簸川郡大社町(現在は出雲市)の大社駅までを結んでいた西日本旅客鉄道(JR西日本)の鉄道路線(地方交通線)である。

出雲大社への参詣路線として京都・大阪方面などからの直通列車も運行されていたが、JR移行前の1985年からは線内折り返しの普通列車のみ運行されていた(詳細は運行形態参照)。国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道に承継されたが、1987年に特定地方交通線第3次廃止対象線区として承認され、1990年4月1日に廃止された。

廃止後は一畑電気鉄道による代替バスに転換された。(現在は一畑バスが運行)また、和風木造の大社駅舎は、国の重要文化財・島根県有形文化財に指定され現在も保存されている。

※以下の記述は特記なき限り廃止時点のものである。

目次
1 路線データ
2 運行形態
3 歴史
4 駅一覧
5 接続路線




路線データ
管轄(事業種別):西日本旅客鉄道(第一種鉄道事業者)
区間(営業キロ):出雲市~大社 7.5km
軌間:1067mm
駅数:4駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)

運行形態
廃止直前の時点で、線内折り返しの普通列車のみ概ね1時間毎の運転で、1日15往復の列車が設定されていた。

出雲大社への参詣路線という性格から、他線と直通する列車が開業直後から運行されていたが、特定地方交通線に指定される見込みとなると、1985年3月に他線に直通する列車は廃止され、地域輸送が中心となった。

1980年代頃の主な直通列車として、名古屋~大社間の急行「大社」(1982年11月15日に廃止)や大阪~大社間の急行「だいせん」(1985年3月14日に大阪~出雲市間に変更、2004年10月16日に廃止)があった。


歴史
1912年6月1日 出雲今市(現在の出雲市)~大社間が開業。
1932年5月10日 朝山駅が出雲高松駅に改称。
1957年4月1日 出雲今市駅が出雲市駅に改称。
1958年4月1日 出雲高松~大社間に荒茅駅開業。
1974年10月1日 貨物営業廃止。
1987年2月3日 第3次特定地方交通線として承認される。
1987年4月1日 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道に承継。
1990年4月1日 全線廃止。

駅一覧
出雲市駅 - 出雲高松駅 - 荒茅駅 - 大社駅


接続路線
出雲市駅:山陰本線
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 楼主| 发表于 2007-1-10 18:59 | 只看该作者
大阪市電 Encyclopedia

   


大阪市電(おおさかしでん)は、かつて大阪市交通局が運営していた路面電車。

日本で最初の、公営による電気鉄道(狭義の「市電」でもある)であった。一方、当時の政令指定都市で市電全廃を断行したのも大阪市電が最初である。


目次
1 概要
1.1 歴史
1.2 特徴
2 沿革
3 現在残っている元在籍車両
3.1 現役
3.2 保存
4 関連項目
5 参考資料
6 外部リンク




概要
歴史
1903年(明治36年)、まず第一期線として花園橋(現在の九条新道交叉点)~築港桟橋(現在の大阪港/天保山)5.1kmの築港線が開業。天保山では同年7月、日本で始めて都市自身が建設・運営する港として大阪港が開港したばかりで、それへのアクセス路線であった。

続いて1908年の第二期線(東西線・南北線、11.1km)開業で、市街を東西南北に結ぶ骨格が形成された。その後路線は第三期線43.2km、第四期線25.2kmそして期外線と急速に延長され、最盛期は118km弱と、市電では日本有数の路線となった。

しかし戦後の高度経済成長期に入ると、モータリゼーションやそれによる遅延の常態化により、乗客が減少した。大阪市議会は1966年3月、市電を全廃し高速鉄道(地下鉄)による新交通体系を確立する旨の決議を行い、市電は1969年(昭和44年)3月31日限りで65年半の歴史を終えた。


特徴
軌間は標準軌(1435mm)、電圧は直流600V。塗色は、開業当時茶色一色だったが、戦後はクリームにあずき色(インディアンレッド)の2色塗りとなった。

大阪市は、市街地の交通を市が掌握する、市街交通市営主義(俗に言う市営モンロー主義)を当初から打ち出しており、基本的に市街地へ民営鉄道を入れさせなかった。このため他の市電に見られるような民営線の買収は少なく、南海電気鉄道(旧・大阪馬車鉄道路線の一部区間)と、阪堺電鉄(新阪堺)の2例にとどまっている。

現在、起点だった九条新道交叉点には「大阪市電創業の地」の碑が立つ。なお九条には大阪市交通局の本庁舎もあるなど(九条新道からは400mほど離れている)、市営交通には由緒深い地である。

車輌の一部が広島電鉄で現在も活躍するほか、大阪市が運営する市電保存館に保存されている。


沿革
1903年(明治36年)9月12日 第一期線として築港線(花園橋~築港桟橋)を開業。
1908年(明治41年)8月1日 第二期線として東西線(九条中通一丁目~末吉橋)、南北線(大阪駅前~恵美須町、渡辺橋~大阪駅前)を開業。
1913年(大正2年)6月1日 市電の貨物輸送開始。
1921年(大正10年)12月24日 天王寺西門前~天王寺駅前を南海から買収。
1925年(大正14年) 車輌数が949輌と最高になる。
1929年(昭和4年)4月20日 市電の貨物輸送廃止。
1943年(昭和18年) 年間乗客数が約5億2,200万人と最多になる。
1944年(昭和19年)4月1日 阪堺電鉄(新阪堺)を買収、路線長が117.8kmと最長になる。
1957年(昭和32年)4月1日 森之宮東之町~緑橋を延長(最後の開業)。
1966年(昭和41年)3月 市議会、市電全廃の決議。
1969年(昭和44年)3月31日 この日限りで市電全線廃止。

現在残っている元在籍車両

広島電鉄750形
元大阪市電1651形

広島電鉄900形
元大阪市電2601形
現役
広島電鉄750形 761~763号、768~769号、772号
広島電鉄900形(元・大阪市電2600形) 904~907号、910~914号
塗色も大阪市電当時のものとなっている。

保存
市電保存館
二階付き電車 5号
散水電車 25号
11形 30号
501形 528号
1601形 1644号
3001形 3050号
大阪市住之江区緑木の緑木検車区内(1993年に大阪市港区八幡屋の八幡屋公園内から移転)。公開は年数回、イベント時のみなので注意。
森之宮車両管理事務所(非公開)
801形 801号
2201形 2201号

関連項目
大阪市営地下鉄
大阪市電阪堺線(三宝線)

参考資料
小林庄三『なにわの市電』トンボ出版、1995年(追加:瑞雲) 

外部リンク
大阪市電保存館(個人サイト)
大阪市電
昭和43年ごろ 大阪市電のあった頃
大阪市電発祥の地碑
新阪堺
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 楼主| 发表于 2007-1-10 19:00 | 只看该作者
大阪万博の交通 Encyclopedia

   


大阪万博の交通(おおさかばんぱくのこうつう)では、1970年に催された日本万国博覧会(大阪万博)における会場内相互間、または万博会場へのアクセスの役割を果たした交通機関について記す。


目次
1 概要
2 万博会場内の交通機関
2.1 モノレール
2.2 レインボーロープウェイ
2.3 動く歩道
2.4 電気自動車
3 会場へのアクセス
3.1 大阪市営地下鉄・北大阪急行電鉄
3.2 京阪神急行電鉄(阪急)
3.3 日本国有鉄道(国鉄)
3.4 高速バス
3.5 特別企画乗車券
4 その他
5 関連項目




概要
大阪万博は、1970年3月15日~9月13日の会期183日間で来場者数はのべ6421万8770人と国際博覧会史上最多を誇っているが、それだけの人数をさばくために交通機関は大きな役割を果たすことになった。その開催が決定したのは1965年の9月14日であり、翌10月には「財団法人日本万国博覧会協会」が設立され、会期までに必要な設備を整えることが定められ、そのひとつとして交通機関の整備も上げられた。また、都市インフラもこれを機に一気に整備しようと言うことになり、直接は関係しないところでも交通機関整備・市街地再開発などが推し進められることになった。


万博会場内の交通機関
モノレール
万博会場内を周る環状運転路線として1968年9月から工事が始められ、万博開幕の前日に開業し、閉幕日まで運行された。自動列車運転装置(ATO)を採用したが、無人運転ではなく都営地下鉄大江戸線などと同じように扉開閉や発車ボタンを押すための係員が乗っていた。

営業線線路延長 : 4.27km
検修線線路延長 : 0.22km
複線区間 : なし
高架区間 : 2.7km
最小半径 : 60m
最急勾配 : 55パーミル(‰)
運行
運転間隔 : 平日3分、休日2分半
運行方向 : 反時計回りの一方通行
運転時間帯 : 4月28日まで9:00~22:30、以後8:30~23:00
一周所要時間 : 15分
車両
編成 : 4両
車両長 : 先頭車15.8m、中間車14.0m
定員 : 540人(1080人まで詰め込み可)
編成数 : 6本

中央駅 - エキスポランド駅 - 東口駅 - 日本庭園駅 - 北口駅 - 西口駅 - 水曜公園駅 - (中央駅)
駅にはホームゲート設置、中央駅と西口駅は乗降分離の両面ホーム。
運賃 : 無料
運輸管理 : 東京急行電鉄
保守管理 : 東京急行電鉄・日立運輸東京モノレール

レインボーロープウェイ
万博会場西口から万国博ホールまでを結ぶ遊覧用のものであった。

全長 : 0.87km
方式 : 3線自動循環式
ゴンドラ
台数 : 22
1台定員 : 8(立席含むと15)
地上からの高さ : 平均約30m
速度 : 秒速2m
所要時間 : 7.5分
運転間隔 : 8分
運転時間 : 4月28日まで9:30~21:00、以後9:00~21:30

中央駅 - 西口駅
運営管理 : 近畿日本鉄道
料金 : 大人200円、子供100円
そのほか特徴 : 途中で、展望のために回転するようになっていた

動く歩道
総延長:3516m
最大延長物:187.5m
方式:チューブ状高架式(冷房完備、地上4~5m。ただし露出型、一方向運転のものも存在)
速度:2.4km/h

電気自動車
6人乗りで、観客タクシー輸送用が70台、関係者用が130台。最高時速は8km程度で、タクシー料金は始め20分が100円、以後5分毎に50円であった。


会場へのアクセス
大阪市営地下鉄・北大阪急行電鉄
大阪市では道路混雑が悪化したこともあり、1963年から路面電車を全廃して地下鉄を整備する計画を進めてきたが、万博開催決定を受けてそれを前倒しすることにした。

この結果大阪市電は1969年に全廃され、その一方で地下鉄網は1965年当時の27.0kmから万博開催時には64.2kmに急拡大した。

また御堂筋線の江坂駅から先、千里ニュータウンの開発に備えて北大阪急行電鉄の建設が決まったが、万博開催中は中国自動車道の敷地を一時的に借りて万博中央口までの臨時線を造ることになり、開幕前の2月24日に南北線と臨時線である東西線(千里中央駅~万国博中央口駅)の全線が開業した。

更にこれに備えて大阪市営地下鉄は大型車両の30系を用意し、北大阪急行電鉄も2000形を投入(後大阪市の30系に編入)した。

また、道路事情が悪化した場合に備えて50系を改造した貴賓車も4両製造したが、実際には使われる事は無かったという。

万博開催時には地下鉄御堂筋線と北大阪急行電鉄の直通列車が最大2分半間隔で運転され、梅田駅から万博中央口駅まで25分、新大阪駅からは20分で結び、大阪近郊からのみならず遠方から新幹線等で来た客の輸送も担った。

2000万から2400万人をこのルートで輸送したという。


京阪神急行電鉄(阪急)
阪急千里線南千里駅~北千里駅間に、万博開催期間の少し前である1969年11月10日から閉幕後の1970年9月14日まで「万国博西口駅」(※南千里駅から2.2km地点、現在の山田駅より400m北側の地点)を設置して輸送に備えた。

万国博西口駅は約900万人が利用したといわれ、神戸本線・宝塚本線方面から十三駅で折り返して直通する臨時列車・団体専用列車も設定された。また、梅田駅~北千里駅間に設定された臨時準急列車は、万国博西口駅までを30分弱で結んだ。

他に、京都本線には南茨木駅を1970年3月8日から臨時駅(後に一般駅に格上げ)として新設、同駅からシャトルバスをピストン輸送することにし、万博開催中は特急も臨時停車させることにした。


日本国有鉄道(国鉄)
東海道新幹線はこれを機に「ひかり」の編成をすべて16両編成に増強し、「こだま」を主にして臨時列車も多く設定した。万博旅行が新幹線初乗りという人は多いといわれ、新幹線は「万博パビリオンのひとつ」と呼ばれたともいう。

また、東海道本線の茨木駅を橋上駅舎化して駅前広場を整備し、万博開催中は東口行きのピストンバスをここから出すことにして、開催中は快速列車の停車駅になった。更に、名古屋駅~新大阪駅間に快速「エキスポ」号を1往復、河瀬駅~茨木駅間と茨木駅~西明石駅・網干駅間に快速「万博」号を計3往復設定した。

その他に新大阪駅発三島駅行きで、三島駅で東京駅行きの新幹線「こだま」に連絡する臨時夜行急行列車「エキスポこだま」も設定された。


高速バス
名古屋駅から名神高速道路を経由して中央口までいく所要2時間20分のハイウェイバスが設定されたほか、名古屋駅~大阪駅間を結ぶ定期便も同地を経由させ、ドリーム号もいくらか増発させた。


特別企画乗車券
「万国博記念回遊券」
関西・名古屋地区を除いた地域からの往復運賃と同額で、東海道本線の草津駅以西、山陽本線の明石駅以東と和田岬線、福知山線の宝塚駅以南、関西本線の木津駅以西、阪和線の鳳駅以北、山陰本線の亀岡駅以南、それに奈良線、大阪環状線、桜島線が乗車できた。
「万国博記念エック」
三島~名古屋地区からの斡旋旅行という形態で、万国博中央口駅までの一体乗車券になっていた(エックとは「エコノミークーポン」の略)。
「万国博記念乗車券」
大阪・天王寺・福知山・岡山各地区から、大阪までの往復割引乗車券。

その他、阪神電気鉄道なども大阪市営地下鉄・北大阪急行電鉄・京阪神急行電鉄の「万国博中央口駅」・「万国博西口駅」までの一体往復割引乗車券を販売していたが、それら切符の多くは「中央口」・「西口」の両方が使えるよう、「中央口」経由のほうが運賃が高い分の追加賃を払えば、どちらの経路で乗れるようにもしていた。


その他
万博開催にあわせ、近畿日本鉄道(近鉄)では難波線・鳥羽線を開通させて近鉄特急を増発するなどし、万博見物客を伊勢志摩や吉野へ誘致しようとした。

関連項目
愛知万博の交通
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 楼主| 发表于 2007-1-10 19:01 | 只看该作者
大隅線 Encyclopedia

   


大隅線(おおすみせん)とは鹿児島県曽於郡志布志町の志布志駅から同県国分市の国分駅までを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。国鉄再建法施行により第2次特定地方交通線に指定され、1987年に廃止された。

目次
1 路線データ(廃止時)
2 歴史
2.1 古江東線
2.2 大隅鉄道→古江西線
2.3 古江線→大隅線
3 駅一覧
4 接続路線




路線データ(廃止時)
管轄(事業種別):日本国有鉄道
区間(営業キロ):志布志~鹿屋~国分 98.3km
軌間:1067mm
駅数:33(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
閉塞方式:

歴史
大隅線の歴史は、1915年に軌間762mmの南隅軽便鉄道(なんぐうけいべんてつどう)が高須~高山間を開業したのに始まる。同鉄道は、翌年に社名を大隅鉄道(おおすみてつどう)に改め、1923年までに古江~串良間が全通した。

その後、日南線の一部とともに、改正鉄道敷設法別表第126号に規定する予定線にあげられ、1935年に大隅鉄道は買収・国有化されて軌間762mmのまま国有鉄道古江線(ふるえせん)となった。同年、国有鉄道が建設した古江東線(軌間1067mm)が志布志から東串良まで開業。翌年には古江西線(東線開業にともない改称)の串良駅に乗入れた。古江西線は、買収後直ちに改軌工事に着手されたが、串良駅は1938年に古江西線の改軌が完成するまでの間、異種軌間が併存する接続駅となった。

1938年の改軌工事完成に伴い、スイッチバック構造であった鹿屋駅は、移転の上直通可能な配線に改良され、停留場のいくつかが廃止、志布志~古江間が古江線と改称された。

以降の延長は戦後となり、1961年に海潟まで、1972年に国分まで開業し全通。同時に線名を大隅線に改めたが、最後の開業区間は、開業後15年を経ずに1987年に廃止となった。この路線も政治に翻弄され続けた国鉄ローカル線を象徴する存在といえよう。


古江東線
1935年10月28日 【開業】古江東線 志布志~東串良(16.2km) 【駅新設】菱田、大隅大崎、東串良
1936年10月23日 【延伸開業】東串良~串良(0.6km)(古江西線串良駅に乗入れ) 
1937年4月19日 【駅新設】三文字

大隅鉄道→古江西線
1915年7月11日 【開業】南隅軽便鉄道高須~鹿屋 【駅新設】高須、野里(停留場)、田崎(停留場)、鹿屋
1916年5月30日 【社名変更】南隅軽便鉄道→大隅鉄道
1920年12月23日 【延伸開業】鹿屋~高山 【駅新設】下田崎(停留場)、川西、永野田、姶良、論地(停留場)、高山
1921年8月11日 【延伸開業】高山~串良 【駅新設】下小原、串良
1923年12月19日 【延伸開業】古江~高須 【駅新設】古江、船間(停留場)、荒平、金浜(停留場)
1927年2月?日 【駅新設】滝ノ観音(停留場)
1935年6月1日 【買収・国有化】古江線 古江~串良(31.5km) 【駅名改称】高須→大隅高須、野里→大隅野里、川西→大隅川西、高山→大隅高山
1936年10月23日 【線名改称】古江線→古江西線

古江線→大隅線
1938年10月10日 【改軌】古江~串良(31.0km) 【線名改称】古江東線・古江西線→古江線 【駅廃止】下田崎、田崎、滝ノ観音、金浜、船間 ※鹿屋駅移転(線路付け替えにより-0.5km)
1952年1月1日 【駅名改称】姶良→吾平
1961年4月13日 【延伸開業】古江~海潟(17.0km)(旅客営業のみ) 【駅新設】新城、諏訪、柊原、浜平、垂水、海潟
1972年1月1日 【貨物営業廃止】鹿屋~古江(-15.8km)
1972年9月9日 【延伸開業・全通】海潟温泉~国分(33.5km)(旅客営業のみ) 【線名改称】古江線→大隅線 【駅新設】大隅麓、大隅辺田、大隅二川、大隅境、大廻、大隅福山、敷根、銅田、金剛寺 【駅名改称】海潟→海潟温泉(同時に移転。改キロなし)
1982年11月15日 【貨物営業廃止】志布志~鹿屋(-32.0km)
1984年6月22日 第2次特定地方交通線として廃止承認
1987年3月14日 【廃止】全線(-98.3km) バス転換

駅一覧
志布志駅 - 菱田駅 - 大隅大崎駅 - 三文字駅 - 東串良駅 - 串良駅 - 下小原駅 - 大隅高山駅 - 論地駅 - 吾平駅 - 永野田駅 - 大隅川西駅 - 下田崎駅 - 鹿屋駅 - 田崎駅 - 大隅野里駅 - 滝ノ観音駅 - 大隅高須駅 - 金浜駅 - 荒平駅 - 船間駅 - 古江駅 - 新城駅 - 諏訪駅 - 柊原駅 - 浜平駅 - 垂水駅 - 海潟温泉駅 - 大隅麓駅 - 大隅辺田駅 - 大隅二川駅 - 大隅境駅 - 大廻駅 - 大隅福山駅 - 敷根駅 - 銅田駅 - 金剛寺駅 - 国分駅


接続路線
志布志駅:日南線、志布志線
国分駅:日豊本線
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